高江暴力事件で有罪となった依田啓示氏が、「殴る、蹴る、怒鳴る、叱るも愛のうち」と記していた件についてです

暴力事件と地元に関するデマ、ネット右翼とのつながりで、今やすっかり有名になってしまった依田啓示さんですが、

 

自分が暴力ふるった行為を正当化するため、数々のデマやヘイトを繰りかえして、そのたびに、「みなさまー」で始まる投稿文で支援を呼びかける、ネトウヨ商法が話題になっています。

 

お1人、一ヵ月につき3万円のマンスリーサポートだと、36万円という、びっくり金額で、10人もいればそれだけで年収360万円ですね!

 

ある意味で、彼は、特定の対象を自分の思った通りに動かしたい、その操作のためにデマとヘイトを繰り返しているのでしょう。ご自分でそうおっしゃってますから。

 

ペットや家畜など特定の対象を自分の想った通りに動かす。

 

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彼らネトウヨのお友達だと思いますが、ネットにこんなことを書いていた人もいましたよ。

 

 

 

このツイートにも驚きました。

 

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依田さんはご自分をクリスチャンだと主張する一方で、翁長知事の病気の知らせを聞いて「因果応報」だと語ったことも、僕にとっては信じられないことです。というのも、キリスト教には「因果応報」などという考えはないからです。それは、やまいと闘っている人を、さらに人格的におとしめ、差別する言葉だからです。

 

最低だと思うよ。

女性差別や、病気と闘っている人への差別。

 

でもすべてはもしかしてここに行き付くのではないかなと思います。

 

依田啓示ブログ canaanfarm.ti-da.net

2014年4月4日

従うとは

 

最近、少し成長してきた依田くんのなが〜いボヤキを聞いて下さい。いや、読んで下さい!か?笑

 

『従う』または『従わせる』事は、つまり、ある特定の意図を持った人物が、子供、生徒、社員、またはペットや家畜など特定の対象を自分の思った通りに動かす事だと考えています。

『従う』ことなしに、家族も組織も統制が取れないという人もあれば、『従わせる』行為自体が、アメかムチを使用する強制力がある以上、持続的でないという人もいます。

殴る、蹴る、怒鳴る、叱る、その他、職を失うとか、給料が下がるなど、身体的、心理的な圧迫に加えて、経済的な要素が含まれている『ムチ』

逆に、従えば昇給、昇格、社内での名誉的な待遇向上、お食事、ブランド物などの贈り物など、直接欲に訴える『アメ』と言う手法もあります。

どちらも持続的でないと言ったのは、このアメとムチの要素がなくなった途端、緊張や意欲が減退し、本来のパフォーマンスが発揮されないからです。

下り坂の会社が、有能社員の離職や謀反で一気に転げ落ちるのはそのためでしょう。

 


日本では、この重要で複雑な課題をこれまで考えなくても十分やってこれた。それは、封建制度があったからだと考えているので、福沢諭吉の『天は人の上に人を作らず、、、』と言う名言の普及とともに、そして、敗戦後のアメリカの統治政策の浸透とともに、少しずつだが確実に、『従順』という価値観が廃れてきたような気がします。

昔は、生まれながらにして、カーストという階級があり、皇家や武士として生まれた者以外が、例外を除いて、ステップアップすることなどあり得なかった。

つまり、お上の『権力』に対して疑問を持つことすら許されず、盲目的に従うという事が美徳とされ、それが私達のDNAに刷り込まれてきた。

未だに、海外のどこの国にもいるような革命的なリーダーが日本に出現しないのは、その芽生えを自制する精神と、それを封じ込める社会があるからだと思います。

 

ところが、最近、在日外国人だろうが、同和だろうが、金さえあれば、政党の党首を思いのままにコントロールし、社会の裏も表も掌握する権力者が出現し始めた。昔の呪縛を破ったという意味では、社会的な平等を謳歌しているとは言えますが、それによって、金、権力、名誉、その他の暴力的な力があれば、はい上がって人を支配できるという間違った価値観が蔓延してきたのも事実だと思います。

そこは、アメとムチだけを使って従わせる極限の世界。この大事なテーマに、答えを見出すことなく、死んでいった権力者は多い。

 

『従う』という意識が各人に存在するだけで、学級崩壊や犯罪などの社会問題が激減することは断言できるでしょう。

だから、如何に従わせるか?が永遠のテーマとして、外交から結婚、教育、育児、ペットのしつけに至るまで研究され、本が飛ぶように売れてきたのです。

『この子、言うこと聞いてくれないんですぅー』って言うバカ親を見ると、ものすごく腹が立つ。それは、その親と子供がバカで居続けるというレベルでなく、それがドンドン社会に出てきて、国の在り方に大きな影響を及ぼすからだ。

非常に高い志を持ち、愛する国のために何か貢献したいという人と、前出のバカ親は、投票の場において、同じ一票でしかない。

バカ親が多数を占める現在、政治家も、バカが喜ぶバラマキ政策を断行せざるを得ない部分があります。

戦時中の神風特攻隊で国に命を捧げた祖先達は、金がもらえるから、上司が恐いから、命令に従ったのか?

命令以前に、この素晴らしい国を、家族を、天皇陛下を護りたい!という強い愛情に裏打ちされた自己犠牲の精神があったからではないのか?

自殺者を出してブラック企業と言われている会社は、何もワタミだけではありません。

そういうところは、自己犠牲ばかり社員に説いて、社員から愛される事を何もしていない。

どちらが先か?と聞かれれば、それは『愛』なんじゃないかな?と少し成長した僕は思うのです。

じゃあ、『愛』とはなんぞや?となると、殴る、蹴る、怒鳴る、叱るも含まれるから、重要で複雑な課題だと考えているのです。

 

殴る蹴るも愛のうち、と公言してはばからない依田さんです。

 

殴ったり蹴ったりすることが愛情なら、家庭や会社でも殴ったり蹴ったりが日常的にあっても当然という事でしょうか。

 

そしてその暴力性が、見ず知らずの他人の女性にまで及んだのでしょうか。

 

殴る蹴るは愛ではありません、暴力です。

 

暴力を愛だと思っている以上、その人の暴力は止まりません。

 

家庭内暴力 (DV) はこの意識から生まれているからです。